
これから東中野界隈の様子が描かれた短編小説をご紹介いたします。
作者友岡寿彦さんの作品に、僕が少し読みづらい言葉にふりがなをつけて、作品を掲載します。それでは、古き良き時代をお楽しみください。(不定期更新です)

作品No.2 「様変り(さまがわり)」
「駅の向こうの大型スーパーへ行ってみたでしょう。 肉、魚、野菜、フルーツ、米、味噌、しょう油、酒、コーヒー、塩、砂糖、揚げ物、麺類、冷凍品。上の階へ行けば、婦人服、肌着、紳士物、履物、家庭荒物、洗剤...線香、ローソクまで売ってまさあな。 暮らしに要るものは、もう何もかも置いてある。 売場はあまり店員が居なくても、殆ど用が足りるようになっている。 この界隈(かいわい)、どこにこれだけの人が住んでいるのかと思う程、客が入っている。 日中、殆ど(ほとんど)人っ子の通ってない商店街とあまりにも差が大きすぎまさあな。 これが、時代の趨勢(すうせい)というものでしょうかね」
たまたま、床屋で出くわした酒屋の主人が、多少自嘲(じちょう)気味に話した。 煙草の灰が曲がって今にも落ちそうになっている。
「大通りを隔てて(へだてて)別の大型スーパーが出来たね。大型店同士の競争だ。消費者にとっては結構なことで、両方睨んで(にらんで)買えばいい。住民福祉だね。 日々の事だから一割でも二割でも安く上がれば助かるからね」
五平は足を組みかえ乍ら(ながら)、相槌(あいづち)を打った。
マスターが鋏(はさみ)を動かし乍ら頷いて(うなずいて)いるのが鏡に見える。
五平がこの地に住んで五十年余になる。JRのH駅から600m程の所を傍き(わき)に入った宅地であって、その間両側は殆ど商店であった。 新宿へ10分足らずということもあって、もともと諦め(あきらめ)ムードと言うか、何軒かを除いては、行く行く拡張発展させてというような意欲は更々感じられず、現状維持も汲々(きゅうきゅう)としている店が殆どのように思はれた。 五平が無聊(ぶりょう)のままに、ざっと指折り数えただけで四十店近くの店が消えている。
完全に失くなった店、転業した店、事務所や貸し店舗にしたり、パーキングになったり、マンションになったものなど色々だが、その大半が後継者云々(うんぬん)など、その家庭内の事情によるものではなく時代の波の然らし(しからし)むるものであるように思はれた。割合に早く消えたのが、豆腐屋、果物店、靴店、菓子屋、牛乳店、それに小市場であったように思う。地の利の良い駅前の果物店といっても、大きな駅ならば兎も角(ともかく)、H駅では、もう一つ乗降客も力弱かった。菓子屋は、そこそこ間口のある店であって、平面に並べた硝子蓋(がらすぶた)の木箱と棚にずらりと置かれたずんぐりした硝子瓶(びん)とに乾菓子や煎餅や飴などが種類豊富に入れてあった。エプロン姿の女主人の愛想もよく、お馴染みも多かったのだが…。 牛乳店も明治系で、地味な感じの主人と、てきぱき働き者のおかみと、若い衆が一人、暗いうちからガチャガチャと瓶の音をさせて甲斐(かい)がいしく配達して回っていた。
その向かいの靴店では、狭い間口の前半分の両側に靴が陳列してあって、薄暗い奥の方で、小柄な主人が、厚手の前掛をして鉄の台に靴を被せ(かぶせ)て、とんとんと底革の修理に精を出していた。 商店街の南端に近い所にあった市場は、魚屋、八百屋、乾物屋などの寄り合いで
「やあ、奥さんいらっしゃい、毎度どうも…」
「今日はとびきり活き(いき)のいいのが入ってますよ」
などと、景気づけの声を掛け合って張り切ってやっていたのだが…。
どちらかと言うと、買物篭(かご)を下げて、主婦がその日の夕餉(ゆうげ)のお総菜を買いに出ていた頃の、今にして思えば前時代的な存在だったのだろう。
次の段階では、洋菓子、文房具、眼鏡時計、玩具、鶏肉、呉服各店、それに煮豆や漬物などの総菜屋が消えた。 四十歳そこそこの鶏肉屋の主人は、商店街のリーダー的存在で、盆、暮れの催しなどにも積極的に音頭(おんど)をとっている感じだったが、或る(ある)時点で急に店を畳んで(たたんで)アメリカへ移住したということ。眼鏡店は商店街の真中辺で、店も広く、主人と息子はいつもきちんとネクタイをしめてスマートに営業していたのだが、これも完全に閉めてしまった。 女店員を三、四人おいていた文房具店はコンビニに転向。駅近くの呉服店は㐂多方(きたかた)ラーメンになってしまった。
その次の段階では、和菓子店、八百屋、家電、寝具、洋装店等々が失くなった。 駅前の和菓子店はこの辺では類似店が無かったせいもあって、世評も低くなく、常時赤飯なども作り、節句時などには関連品も小まめに扱っていた。 和菓子人気上昇の気運に乗って、順調なように思はれたのだが…。 白いコック帽を斜め(ななめ)に乗っけた馴染の主人の姿はもう見られなくなってしまった。 早朝、庇(ひさし)の浅い店の前を通ると、道傍(みちばた)に屈み(かがみ)込んで里芋か何かの皮を剥いたり、青菜を束ねたりしていた働き者の八百屋も失くなった。 主人夫婦と中年の番頭とでやっていた寝具店も、昔のような綿(わた)の打ち直しも失くなり、スーパーなどで羽毛を買って使い捨てるような様変りに、一時は窮余の策として婦人服関係も併せてやっていたが結局見切りをつけてしまった。洋装店も、量感も今一つで、通りすがりの人やお馴染さんだけでは限度があったのであろう。 各店共、夫々(それぞれ)この地では、のれんも古く、殆どは五平が住む以前から存在していた商店であった。
この通りで近年増えたのは、クリーニング中継店、美容理髪とコンビニ、それに商店ではないが歯科医院が目立つ。
毎年、時季になると、中程のパーキングの隅っこの桜の大樹が爛漫(らんまん)の花を咲かせているのが、せめてもの、この通りでの、変わらぬ姿であり、唯一、明るさをもたらしてくれるもののようである。
五平自身、昔から商店街での立ち寄り先は、酒店と榊(さかき)を買う花屋、それに決まった月刊誌を求める書店位で、それらの店でも、ついでに他の物を物色することは無かった。 怖らく(おそらく)他の住民も、地元の商店で本気で買物をするというのは稀で、通りがかりに、ちょっと立ち寄って、あれだけを…といった感じで、浮草みたいな、水面のあめんぼうみたいな繋がりになってしまっているように思はれた。
「以前には、休日には、この通りを歩行者天国にしたもんだ。歳末やお中元時には、くじ引き売出しも景気よくやった。両国の初場所の招待をしたこともあった。 八月には二晩大通りに模擬店を賑やか(にぎやか)に出した。年間通してポイントセールもやった。皆、足並揃えてやったものだがね…夢のようだ。 その頃は、何もかもが弾み(はずみ)がついて運んだし、次から次と活発だった。 しかし、冷静に、じっと考えてみると、その頃は、まだ基本的に、この土地の人達の生活に於て、我々は、必要欠くべからざる存在だったのだ。大きな存在価値があったのだ。…だが、今はね、住んでる人の意識の外にあるみたい…歳月の流れ…大きく変わったよな」
酒屋氏は、目を細めて、慨嘆(がいたん)するように結論づけた。
ごとっと、ドアが開いて
「どうだい、相当待つようかね」
と、嗄れた(しわがれた)声で法被(はっぴ)姿の男が覗いた(のぞいた)。
「すみません、そうですね、小一時間ぐらい…」
「じゃ、もう一仕事終えてくるよ」
小さなビルの三階で、夫婦でやっているこの床屋は、大したお世辞も言わないが、実直で仕事が丁寧なので殆ど(ほとんど)がリピーターのようである。 茲(ここ)一年位、鏡の傍き(わき)の棚に置いてある平べったい鉢の洋蔓(つる)の紫がかった小さな葉っぱが盛り上がるように成長している。
酒屋氏はそこにあった週刊誌をさして興味も無さげにペラペラと捲り(めくり)始めた。
新宿側の大きな窓に高い青空が見える。いつかの夕方、五平はこの窓から偶然見事な虹を眺めたことがあった。
ドアが又開いて学生風の男が入って来た。五平はちょっと座をずらして詰めた(つめた)。男は何の会釈(えしゃく)もなく座ると、漫画本を取りあげた。 やっと一人終わったようで、おかみさんが客の首筋や肩の辺りをブラシで掃って(はらって)いる。
「ああ、さっぱりした」
と、学校の先生タイプの男は気持ちよさげに、二、三度肩を上げ下げした。
「お先に…」
と、次の順番の五平は酒屋氏に会釈して、腰を上げた。
了