
これから東中野界隈の様子が描かれた短編小説をご紹介いたします。
作者友岡寿彦さんの作品に、僕が少し読みづらい言葉にふりがなをつけて、作品を掲載します。それでは、古き良き時代をお楽しみください。(不定期更新です)

作品No.1 「行きずり(ゆきずり)」
(Ⅰ)
五平が、早朝、近くの神田川沿いの遊歩道を歩き始めてから、もう一年余になる。 南の淀橋と北の小滝橋の間に九つの橋があるが、約1700mを往復すると45分程歩くことになる。 殊更(ことさら)大股(おおまた)でとか、或は(あるいは)腕を強く振ってとかではなく普通に歩いている。 淀橋寄りの栄、伏見橋からは、西新宿の高層ビル群を見上げる景色になる。
川の両岸には、ずっと高、中、低木が植えられていて、適時、季節の花が楽しめるように、配慮されているようではあるが、場所柄、遙か(はるか)遠山を望みながら、土堤(どてい)の青草の道を歩くというようなことは望むべくもない。 川の両壁面と底の三面は、凡て(すべて)頑丈なコンクリートで固められていて、川底は路面から10m程の下にあり、岸辺に立って魚がどうのこうのと言うような“自然”とは全くかけえ離れていて、“野趣”(やしゅ)は欠けらも無いが致し方ない。
毎朝歩いていると、男女同好の士は結構居るものである。町会の馴染みだろうか、歩いたり立ち止まったりし乍ら(ながら)、話し話しの数人のグループとか、仲睦まじげ(なかむつまじげ)な何組かの夫婦や、ちょっと威厳の残影を感じさせる老紳士風とか、 左右の肩を上げ下げしてよたよた歩きの老婦人、折り曲げた腕を強く振って勢のよい、しゃきしゃきの中年婦人、すっかり輝きを失くしたような杖つきの爺さん、駆けているのは、スポーツ関連の連中であろうし、人間模様は実に様々であるが、道々頻繁(ひんぱん)に目について、聊か(いささか)歩行の妨げになるのが、得々とペット犬を引張ったり、引張られたりしている“愛犬家”である。動き回る長い綱(つな)も邪魔っけだし、道傍(みちばた)のあちこちで糞便(ふんべん)の始末をしているのも目に障る。
女の人は、大体長パンツで、真夏と雖(いえど)も長袖なのは、日焼け除けと痩身(そうしん)のための発汗を促す(うながす)ためだろうが、それにしては最も日々の運動を要求される筈(はず)の肥満体の人が皆無なのが解(げ)せない。
伏見橋寄りに住居のある五平は、南の方から歩くのだが、その途中で、よく出会う六十年輩の婦人が居た。
背も高く細身で颯爽(さっそう)と歩いてくる。グレーのストレッチパンツに白いセーターで、庇(ひさし)だけの帽子を被って(かぶって)、なかなか、きりっとした感じである。初めの頃は、全く意識しなかったのだが、日が経つにつれて何となく、今日はどの辺で出会うだろうか、などと、歩き乍ら、漠然(ばくぜん)と思うようになった。 この婦人は、小滝橋の方から、スタートして来るのだが、あっという間の擦れちがい乍ら、往きと帰りの二回出会うことになる。お互い目も合はさないのだが、五平の感じでは、普通の主婦ではなく、ビジネスマンかライターのような雰囲気であった。どちらか言うと、男性的な挙措(きょそ)の人のように思はれた。
ふと傍(わき)を見ると、簾(すだれ)の垂れた(たれた)窓際の塀の上に猫が目を瞑って(つむって)座っている。そしてその下の少し離れた路上に、もう一匹の猫が、五平の方を窺う(うかがう)かのように見ていた。
(Ⅱ)
中入りの幕が降りると、五平は逸早く(いちはやく)ロビーへ出て、灰皿スタンドの置かれている処の長椅子に腰掛けた。G座はロビーが狭いので椅子も少いのである。 ほっと煙草に火をつけ五平は何かに憑かれた(つかれた)ように、中空を凝視(ぎょうし)していた。“放浪記”を観るのは、二回目だが、新鮮で飽きない。贅肉(ぜいにく)を落とし切って、洗練されつくした芝居の迫真の演技の余韻(よいん)に浸っていた。 ぞろぞろと各扉から観客が出てくる。この劇場は団体の招待客もあるが、その筋の“通”(つう)の人も多い。
「若いわね、とても八十過ぎとは思えない」
「千五百回もこなすなんて超人技ね。達者で長生きしなくちゃ」
「あの菊田一夫の真似している人、定評があるんですってね」
最後の方に出て来た四、五人連れの中年婦人が楽しそうに話し合って来る。と、その中の一人が五平をちらりと見て、あれっと言うような顔をして、つと足を止めて、にこっと会釈(えしゃく)した。
濃い目の化粧をしていて、シックな、スーツ姿のスタイルのいい婦人である。…そして皆と連れ立って売店の方へ歩いて行った。
五平は咄嗟(とっさ)のこととて、全く訳(わけ)わからず、きょとんとしたままだった。 掛けている後ろは壁であって、他の人が居ることは無く、隣の男は俯いて(うつむいて)カタログを見ている。あの会釈は略(ほぼ)五平に対してのものに間違いなさそうだが、五平は全く心当たりはなく、誰も頭に浮かばなかった。 二本目の煙草を吸い乍ら思いを巡らした(めぐらした)が、社交的でもない五平のこと、平素、あちこちへ顔出していることも無く、知人もそうは散財していない。 これは怖らく(おそらく)、あの婦人の勘違い、人違いだろうと結論づけ、開演予告のベルが鳴ったので、五平は椅子を立った。
扉の所に立った案内嬢が「足もとにお気をつけ下さい」と声を掛けながら、小さなライトを揺らして(ゆらして)いた。
(Ⅲ)
小滝橋寄りには、桜が多く植わっていて、この処、沢山な落葉の枯れた音を耳にしながら歩くのも爽やか(さわやか)である。対岸の遊歩道の一区画が細長い公園のようになっていて、そこの一部分に土道があるのだが、雨降りの後などに水溜り(みずたまり)が出来て、避けたり(よけたり)跳んだり(とんだり)する時、久しく忘れていた懐かしいものに出会ったような気がした。 中程の道傍(みちばた)にある不動尊の小さな祠(ほこら)に可愛いい赤い幟(のぼり)が数本立っていて、前にしゃがんで一心に拝んでいる人をよく見掛ける。 毎日同じ道を往復していると、どうしても退屈気味(ぎみ)になる。歩くことが目的なのだからそれに専念して一路(いちろ)歩けばいいのだが、なかなか根気が要る。 或る(ある)作家は、アイデアが浮かぶのは、眠っている夢の中か、早朝の散歩の時だと言っていたが、五平には“構想を練り(ねり)ながら”という素地(そじ)も無く、とても及び(および)もつかない。
今朝も擦れちがったり(すれちがったり)、追い越したりし乍ら(ながら)歩いていった。丁度、数本の百日紅(さるすべり)の並んでいる辺り(あたり)へ来た時、例の颯爽(さっそう)たる婦人の姿が見えた。 五平はいつものように、殊更(ことさら)注目もせず、無関心の態(てい)で歩いていたのだが、その婦人が五平を見て、にこっとして、ちょっと頭を下げて通り過ぎていった。 五平は、今までにないことなので(あれ?)と思い乍ら、すたすたと行き過ぎ(変だな)と首をかしげつつ小滝橋の折り返し点まで行って、対岸に渡って帰りの歩きを続けた。 しかし、あの“にっこり”の会釈(えしゃく)がなんか気にかかって仕方なかった。(変だな、あの婦人が今朝から急に宗旨替え(しゅうしがえ)したのだろうか)と思い乍ら歩いていた。 そして途中まで来た時、はっと思い当たった。(もしや…ああ、あの時の婦人なのだ)と。
毎朝出会う時は、グレーのパンツで、全くお化粧してないが、あの時は濃い化粧だったし、スーツ姿だった。しかし“にこっ”とした時の口元のニュアンスに何となく覚えがあったのだ。
この世の中、いつ何処で誰と出会うか分からない。一度っきりでも忘れ得ない人もあれば 何度出会っても心に残らない人もある。 遠く離れていても忘れ難い人もあり、近くに居ても全く心の通はない(かよはない)人も居る。あの婦人とは…G座のロビーで、…ふと町角を曲がった時に、出くわしたようなもの。 毎朝の歩行時の出会いも、何のつながりも無く、たまたま偶然の出会いである。…だからこそ、このまま掻き(かき)回さないでそっと大事にしておきたい気がする。 今度からは会釈はするだろうが、やはり話すことも無く、声も知らないまま、その分、自由に漂うよう(ただよう)にしておきたい、と五平は思った。
昨日に引続き、怪しげ(あやしげ)な雲行きである。
昨夜の雨のせいか、珍しく下から軽やかな水音が聞こえてくる。 欄干(らんかん)に並んでいた鳩の群れが一斉にばたばたと飛び立った。
日に日に風が冷たくなってくるようだ。
了